アーシュラ・K. ル=グウィン「夜の言葉―ファンタジー・SF論」

2014年05月22日

夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)夜の言葉―ファンタジー・SF論 (岩波現代文庫)
(2006/05/16)
アーシュラ・K. ル=グウィン

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「人間は昼の光のなかで生きていると思いがちなものですが、世界の半分は常に闇のなかにあり、そしてファンタジーは詩と同様、夜の言葉を語るものなのです」意識下の闇の世界を旅して発見した夢の素材を言語化する―。『ゲド戦記』『闇の左手』の作者が、自らの創作の秘密を語りながら、ファンタジーとサイエンス・フィクションの本質に鋭く迫ったエッセイ集。

SF作家 ル=グウィンのエッセイ集…評論集というべきか。
原著の発行から30年以上たちますが、内容にあまり古さは感じません。テーマや(広い意味での)問題提起は、その時代時代に照らし合わせて読めるという感じです。
ファンタジーとSFについて語っているとはいえ、内容は多岐にわたり、難解な箇所もあり全て理解できているとは思えないのですが、もっとも印象に残っているのは、ファンタジーとは作品の文体そのものという部分。

ファンタジーはゲーム(仮想冒険という意味か?)であり、一般的、現実的な小説に比べ、詩的で神秘主義、より狂気に近いものである。
案内人であるファンタジー作家は、シリアスにその責任を負わなくてはならない。
ここで何人かの有名作家の文体を引用し、日常を離脱させファンタジーたらしめるのは、文体、語調であり、それらを使いこなさなくてはならないとル=グウィンは言います。
ドラゴンや魔法が登場すればファンタジーではない。ファンタジーにはファンタジーにふさわしい文体が必要。たとえばジャーナリズムにはジャーナリズムのために、必要とされる視点と速く読める文体が必要である。
文体は作品そのものであるが、売れるからと粗製濫造されるファンタジーの多くが、ただあらすじを追うものとなっているのではないか。
文体は作品そのものであり、文体は作家そのものである。作家がいかに自分自身の世界を見つめ、自分自身の言葉で語るか。
なぜならファンタジーの世界は、歴史も時事問題も関係ない。作家のヴィジョン以外になにも存在しないから。

そうしたファンタジーたらしめる肉付けをできない作家は作家ではないということか。
ル=グウィンは、ファンタジー作家について語っていますが、作家らしい文章力をもった作家、例えば対局としてジャーナリストらしい文章力をもったジャーナリストなど、それぞれのジャンルにふさわしい、プロとしての文章力を持てということなのだろう。
ここではファンタジー作家についてですが、最近何を言いたいのかさっぱりわからないジャーナリストも多いなあと、私は思い浮かべてしまいました。プロとしての自覚という意味も込めて。

ル=グウィンの作家人生は、アメリカ近代のSF・ファンタジーの歴史そのもの。
50年くらい前(1960年代頃か?)は、教育の現場ではファンタジーは「逃避的」として敬遠されて来たという。このあたりは日本も近いでしょうか。
ル=グウィンは(ファンタジーが養う)想像力は、人間的な力になると言います。
「ファンタジーは真実であり、事実ではない。」
ル=グウィンさすがだなあと思います(笑)

ファンタジーは時に残酷で、ハッピーエンドではない。
ここではユングが引用されていますが、人は現実の世界に生きようとすれば、無意識の、自分の中の影(邪悪なもの?)を認めなくてはならないという。
19〜20世紀に多く見られたファンタジーの多くは、善玉対悪玉、キリスト教徒対異教徒…(勧善懲悪ということでしょうね)理性を道案内にするこれらは、合理化されたファンタジーで、ル=グィンはファンタジーとして認めないという。
理性だけでは「本質」にはたどりつけないということか?

ル=グィンの大きなテーマ「ジェンダー」。女性運動を含めて、性(差)は必要かということ。
これらは1950年代、60年代から現在に至るまで、様々に形をかえて、存在しているテーマ(問題)かなと思うものの、私の人生で、そこに真剣に悩むことはなかったせいか、何とも言えない。
ジェンダーをテーマにした代表作「闇の左手」は好きな作品ですが、私が読んだころは「女性運動」と言われてもピンと来ない時代でしたし、ジェンダーを意識したというより、単純に作品がおもしろかったので。

ル=グィンを語る時、必ず相反するものが登場します。男と女、光と影、善と悪、人類と異星人、資本主義と社会主義、個人と集団…。
それぞれの視点で見て、全体を見るという視点。ル=グィンはどちらも自分の中にあることを意識させます。

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